双眼鏡 防湿庫

〜 カール・ツァイスの趣ある旧式双眼鏡の備忘録 〜

光学レンズ研究者の足跡 

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吉田正太郎先生(1912年9月1日-2015年7月30日)。日本の天文学者、光学設計者。大学、研究機関、メーカー等の団体が抱えていた光学機器(カメラ、望遠鏡、双眼鏡のレンズ・プリズム)の知識・技術を広く一般に広め、後進の育成に励まれた。学舎や同好会で直接師事した生徒よりも、先生の書籍を通し、実体験に根付いたその知識体系に触れ、学んだ人の方が多かったのではないだろうか。

 

先生の書籍に出会ったのは10歳の頃。科学クラブの部長だった私は、月次の実験・観測テーマ作成のため、放課後の理科準備室に入り浸り、警備員の夜間巡回をやり過ごし、校門をよじ登って帰る日々を過ごしていた。準備室には、前担任の趣味で公費購入したと思われる天体写真集や専門書が残されており、その中に吉田先生の書籍も複数存在した。表紙での記憶だと、『天文アマチュアのための望遠鏡光学』から『大望遠鏡の時代・星の話』までの書籍は網羅していたように思う。とはいえ、個人的には光学レンズの解説より、所々挟まれるエピソードの方が脳裏に焼き付いている。

 

ざわ・・・ざわ・・・

 

吉田先生の七回忌を過ぎた2021年8月。光学関係者の胸中を揺るがす事件が起きた。

先生の遺品が複数オークションに出品されたのだ。 戦前のネガフィルムやガラス乾板、中国出張時の写真、そして卒業証書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、中国出張時の写真にあった「興亜院華中連絡部」の表札に目が留まった。それは、1939年夏に南京紫金山天文台にて、ツァイス製60cm反射望遠鏡**を視察した時の写真と思われる。六櫻社(後のコニカ)が1934年から製造した小型カメラ「ベビー・パール」(3x4cm判)***を、この上海・興亜院委嘱の南京視察に携帯していた逸話が残っている。

*ツァイス双眼鏡だと、1934年はデルトリンテム・リヒターモデル、1939年はデルタレムの頃になる。

**この時、反射望遠鏡の主鏡は(南京陥落の戦火から免れるため)昆明疎開中。1949年に戻される。

***参考資料:三重県総合博物館所蔵のフィルムカメラ「ベビーパール」

 

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遺品の散逸を悲しむ声がある一方、保護のため、誰かが纏めて落札する動きも見えなかった。
そこで、歴史的学術資料の側面もある写真、ネガフィルム、ガラス乾板は(その用途で欲する方もいるだろうと)敢えて避け、氏の経歴の一行目を飾る「東京帝国大学理学部天文学科 卒業」の証書を入手し、今回の背景を少しでも紐解き、情報共有しようと動いてみた。

 

 

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出品されていたのは山形県の古物商の方で、「通常の宮城の古物市場で仕入れたが、遺品整理とは思われるものの、市場へ流れた詳しい経緯は判らない」と教えてくださった。丸められた卒業証書は裸のまま、筒にも入っていなかったが、紙焼け少なく、非常に状態が良い。このことから、写真やネガフィルム等の備品と一緒に、大切に保管されていたと想像される。署名がある柴田桂太氏(植物生理学・生化学者、教授:1933~1938年)、小野塚喜平次氏政治学者、東京帝國大學総長:1928〜1934年)も、時代考証と一致する。

 

 

はてさて、証書そのものは一枚の紙なれど、さりとて個人が所有するには手に余る。吉田先生は東京帝國大學卒業後、1934年の厳しい就職難(東大理学部の就職率が23%)の中、4月正式に新設された東北帝國大學の天文学教室に無給副手として職を得た。この時、松隈健彦教授に師事し、(教授も他の助手達も理論家だったおかげで)ツァイス製の長さ1.8mある大型望遠鏡口径13cm、39〜390倍の6種類の接眼鏡が付いた赤道儀。1945年の仙台空襲で焼失)を独占することができ、この望遠鏡を分解清掃、正確に光軸調整し、観測に没頭した。戦前・戦中の体験を経て、レンズを解き明かすことを生涯の目標と定め、理論と実務の双方から光学体系を再構築し、判りやすく人々に広めた功績。この最初の足跡から連なる歴史が無かったら、先生の書籍で光学を学び、知見を得るために役立てた人々は存在せず、昭和〜平成を彩ったカメラ、望遠鏡等の光学機器にも、影響が出ていたかもしれない。

 

寄贈先としては、二度と流出しないよう、ゆかりある学術系施設が望ましい。東北大学理学部天文学教室、東北大学史料館、仙台市天文台といった辺りか。見つからなければ終活時に、光学機器大全の奥付に袋とじを追加して封入し、どこかの図書館に寄贈することになるであろう。